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カイピアイネンのパラティッシ
1968年誕生

アラビアの陶芸作家ビルガー・カイピアイネン(Birger Kaipiainen)は、1968年に果物、花、ベリーの図柄で飾られたテーブルウェアをデザインし、その食器にフィンランド語で楽園を意味するパラティッシ(Paratiisi)と名付けました。彼がはじめに製作したのは現在もアラビアで生産されているブルーとイエローのカラーのタイプで、その後1972年にブラックとホワイトのパラティッシが誕生します。

カイピアイネンはこの食器の製作にあたり、形をオーバルにする事をまず決定しました。オーバルはカイピアイネンのアート作品にも頻繁に登場する形であり、また、作品集に掲載されている大半のアートピースにオーバルが採用されているように、彼にとって最も身近な形だったようです。そして、図柄は明るく元気で、大きくはっきりしていることや、その図柄が食器全体を完全に覆っていることなど、パラティッシには1960年代の工業デザインが持つ特徴も見受けられます。

また、ゴージャスなパーティーが大好きな彼はパーティーを意識したデザインを取り入れています。シリーズに含まれるチュリーンやジャーの蓋が特別高く盛り上がっているのはそのためで、贅沢感を強調しています。パラティッシの持つその高級感は上流階級の人々の要求も満たすものであり、1969年ベルギーのファビオラ王女がカイピアイネンのアトリエを訪れた際、彼女はパラティッシを見るなり、この食器が欲しい!と言ったそうです。

そして、多くの上流階級からも支持が高い高価な食器パラティッシを所有する事は、多くのフィンランド人にとってステイタスとなり、国民の高級食器としての地位を獲得していきます。母親は娘やお嫁さんに、また姉妹はお互いに、と、パラティッシをクリスマスプレゼントとして贈ります。一度に全セット買い揃えるゆとりはありませんので、毎年少しずつ買い足して贈るのです。そして、この食器は日常的には使わずに、パーティーの時や特別な日にだけテーブルセットが華やかになるように使われました。それ以外の時には家の食器棚の最も良く見えるところに飾られているものでした。


エエバ、アアタミ、スンヌンタイ
そしてアピラ

ブルーとイエローで彩られたパラティッシの人気が高まると、間もなくバリエーションが作られます。ブラックホワイトのパラティッシは、もともとアラビア工場のプロダクトマネージャーのアイデアから始まり、カイピアイネンが実現したものでした。これは当時カイピアイネンの若い同僚であった陶芸家のヘルヤ・リウッコ・スンドストロム(Helja Liukko-Sundstrom)が教えてくれました。ブラックホワイトのバージョンは発売後間もなく、多くのデザインを追う人々やコレクターを中心に人気アイテムとなりま。ブラックホワイトのパラティッシのアイデア自体は、カイピアイネンのものではありませんでしたが、決してカイピアイネンのスタイルに反するものではなく、実際彼のアートプレートの中には2色のものもあります。

そしてカイピアイネンは2色のパラティッシに夢中になり、ブラックホワイトの発売後には他の色で2色のパラティッシの試作をしています。カイピアイネンからそのプロトタイプを貰い受けたヘルヤが自宅の倉庫からそのプロトタイプを持ってきて見せてくれました。その中には、明るい色の地に強烈なコバルトブルーの図柄のものがあります。カイピアイネンが最も製品化を望んでいたのは、そのコバルトブルーのパラティッシだったそうです。他の試作品の図柄は黄色味がかったブラウンと、赤味のあるブラウンです。しかし、アラビアはブラックホワイトの他には新たなカラーバリエーションを追加しないと決定した為、試作されたそれらのパラティッシが世に出ることはありませんでした。

また、パラティッシと同形の新たな4つのシリーズが誕生します。何も柄がプリントされていない、黄色のアアタミ(Aatami※アダムの意)と白色のエエヴァ(Eeva※イヴの意)、そして黄、赤、緑の上絵が施されたスンヌンタイ(Sunnuntai※日曜日の意)、そしてアピラ(Apila※クローバーの意)です。近頃のコレクターたちが熱くなっている、これらのアイテムは非常に少量生産されたものです。この中では唯一、アピラが再生産されていますが残念なことに2010年末には生産終了が決定しています。


1974年廃番、そして
新生パラティッシは円形だった。

1974年、経済的危機に陥ったアラビアは工場の従業員を整理し人員を半分にまで削ります。アート部門にはビルガー・カイピアイネン、ヘルヤ・リウッコ・スンドストロム、ルートゥ・ブリュック(Rut Bryk)のみが残りました。アラビアの製品ラインナップも大幅に縮小され、パラティッシも生産中止となりました。

しかしフィンランドでのパラティッシ再生産の要望は多く、1988年 アラビアが経済的体制を持ちなおした時に、カラーパラティッシの生産が再開されます。そして、ブラックホワイトのパラティッシが再び生産されるのは、そこから更に10年以上後の2000年の事でした。そして、1988年に再生産された際、工場ではオーバルのパラティッシを円形に変更することを決定しました。カイピアイネン自身もその変更を了承し、オリジナルデザインの多くに手が加えられ円形へと変更されました。

こうしてパラティッシはオーバルから円形へと形を変え現在にいたっています。今ではオーバルのパラティッシと出会う機会はフィンランドでも極めて少なくなっていますが、アラビア製品のコレクターやデザインファンを中心に、オークションやヴィンテージショップではオリジナルのオーバルは非常に高い人気を集め続けています。そして、オーバルのパラティッシプレートがアラビアでようやく再生産されたのは、スコープが別注をした2009年の冬。カイピアイネンも、自身の手で一度は円形へ修正したパラティッシが、オリジナルのオーバルの姿を取り戻すだけでなく、販売される地がフィンランドから遠く離れた日本とは、全く予想もしていなかった事でしょう。


オマケ
カイピアイネンの友人達
アルミ・ラティア

マリメッコの創設者であるアルミ・ラティア(Armi Ratia)はカイピアイネンの最も身近な友人の一人でした。彼らが出会ったのは1930年代、アートスクールで学んでいた時です。二人は一緒に裸婦をスケッチし、イーゼルを並べて作業をし、休憩時間にはカイピアイネンがいつでもアルミ・ラティアをタバコに誘いました。このように二人の友人関係は始まり、アルミが他界するまで続きました。

アルミ・ラティアがサマーハウスのべーカルス邸で度々開いたパーティーは、今では伝説ともなっています。このパーティーにはフィンランドの有名な文化人が多数招待されました。その中でも最もアイデアに溢れていたパーティーは、1975年夏に開かれたカイピアイネン60歳のバースデイパーティーでしょう。

誕生日の2日前、アルミ・ラティアがカイピアイネンに『 プレゼントに何がほしい? 』 と聞くと、カイピアイネンは『 睡蓮の池 』といって笑いました。皆、カイピアイネンがチャイコフスキーのバレー《白鳥の湖》を愛していると知っていましたし、睡蓮の池はカイピアイネン作品に頻繁に現れるテーマでもあります。しかしベーカルス邸の周辺には湖もなければ池もありません。そこでアルミ・ラティアは、既にデザイナーとして活躍していた息子のリストマッティ・ラティア(Ristomatti Ratia)にその準備をさせることにします。

リストマッティ・ラティアは、邸宅に200個もの大きなガラスのビンを届けさせ、近くのポルボー市の許可を取り、市内の河から何百もの睡蓮の花を集めました。ベーカルス邸の芝生に、水を入れたガラスのビンを全て並べ、それぞれに睡蓮を挿しました。ガラスのビンとビンの間には必ずロウソクがおかれました。このようにカイピアイネンは誕生日の朝、白鳥の湖をプレゼントにもらったのです。その時カイピアイネンはあまりの嬉しさに泣き出してしまったそうです。

このパーティー以後、カイピアイネンのアートプレートにはベーカルス邸のシャンデリアやコテージ、ベランダが現れるようになります。1979年のアルミ・ラティアの死後は、これらのテーマに加えて船やハープ、誰も座っていないベンチなどが彼の作品に登場しています。

アルミ・ラティアはマリメッコのテキスタイルデザインを何度もカイピアイネンに頼んでいます。そしてカイピアイネンはいくつかのスケッチをしましたが、結局実現には至りませんでした。

Text : Hanna Jamsa (ハンナ・ヤムサ)、シャチョウ